某じゃぱん

魚釣りと人間

人間:イタズラの意義

ピンポンダッシュってあるじゃないですか。もちろんしていい行為ではないけれど、昭和の子供は経験したことがあるわけですよ。「スリルがたまらない」って輩はただの犯罪者予備軍の子供ですが、当事者は前提として「見つかったら怒られるいけない行為」ってことがわかっているんです。

 

イタズラって、子供にとってのグレーゾーンの学習なんですよね。

 

物事って、「グレー」な部分があるじゃないですか。そして、「グレー」な範囲が物事によって異なっているじゃないですか。物事によって、また人によってことなるその「グレーゾーン」をできるだけ正確に把握することって、成長して新しいことに取り組むとき、また新しい人と接するときにとっても役に立つ「感覚」なんじゃないかって思うんですよね。

 

自分が取り組もうとしていることが、どの程度踏み込んでも大丈夫か。

自分が接しようとしている人が、何を好み何を嫌がるタイプなのか。

自分が取り組もうとしてることが、現在どんな事柄と干渉しているのか。

自分が接している人が、どんな立場でどんな立ち位置に置かれているのか。

 

グレーゾーンからの「白」と「黒」って、境界が人それぞれ異なっているじゃないですか。経験以外で学習することができない大切な感覚でしょ?

 

「勘」と「感覚」って違いますよね。

「勘」は良くて6:4くらいの成功率。

「感覚」は7:3以上の成功率ってイメージ。

 

より成功率を上げる「感覚」を磨く行為の一つに、決して人に誇れる経験とは言えない「イタズラ」が位置していると思うんですよね。実体験と緊張感を伴う想像ってでかいですよ。

 

子供のことが心配で、コレはいい、コレはダメって万事口出しする親がいるけど、いかがなものかと。親の感覚で白と黒の境界設定しているだけで、子供が今後接する人とはグレーの幅が違うかもしれないし、そもそも世界が変化していく。今、親の傘下にいる間は気にならなくても、独り立ちしてからきっと不便するはず。というか、変化に対応できない奴なんて大成しないだろう。

 

「コレはいい」「コレはダメ」「コレはグレーで人それぞれだから気をつけや」って、もう少し振り幅のある忠言を子供にしてあげられる親でありたい。また、それができないならひたすら黙って、子供が踏み間違えた時に黙して低頭、帰路は子供と「今回は下手打ったな」って笑顔で言ってあげられる親でありたい。

 

間違っても頭ごなしに他者に迷惑をかけていないイタズラすら、「自分」の保身で叱るような親にはなりたくない。