某じゃぱん

魚釣りと人間

人間:形式的な活動

子供が「お年玉」をもらう以外、自分と妻の実家に行く目的はない気がする。年に数回顔を出す相手であれば、年始の挨拶なんかいらなくないか?妻の実家なんて、自分が居ないだけで月に二回程度は行っているようだし。

 

結婚すると盆暮にお互いの実家に顔を出す。うちの場合、別に疎遠なわけでもないし、遠方に暮らしているわけでもない。別に「年始」に挨拶に行かなくても良さそうなもんだ。因みに、私の父親も本音かどうかわからないが「正月の短い休みに無理してこなくてもいい」と毎年言う。平時の方が形式がなくて楽なんだろう。私もそう思う。なんかベトベトしている印象だし、待ち構えているのも嫌だ。

 

が、妻は違う。万事形式至上主義。結婚の時も、いらないと思っていた結納をすることになったし、相手もいない頃からずーっとする気のなかった披露宴を盛大にやることになったし。

 

「形式」って金がかかるんだよね。「中身」だけじゃなくて「箱」にも金をかける感じ。私はそこが嫌。

とはいえ、「形だけ」ってのも馬鹿みたいで…

結婚式の「ご祝儀袋」を100円ショップで用意するとか、ポチ袋がないからティッシュで包むとか、ワークマンで買った服でオシャレするとか、ペットボトルを灰皿にするとか、などなど。

 

「目的」と「効果」が「客観性」を持ってバランスが取れていないことが好きじゃない。

 

今はどうか知らないけど、「名古屋の嫁入り」はバランスが取れていたんだと思う。家の威信をかけて娘を嫁に出す。トレーラーに家財道具が積み込まれ嫁入り先へと運ばれる。「普段はしっかり倹約し、ココ一番で派手に」って、共感はしないけど、それを是としている「文化」で「家」で「本人」なら結構だ。

 

世の中の形式主義ってそうじゃない。強制力を感じる。「コレはこうあるべきだ。だってそう言うものだもの。」って。「気持ち」とか「文化」とかは後回し。それって違くないか?

 

私の日本文化への理解が足りないだけ、私の協調性の欠如、私の度量の狭さ故かもしれないが、日々立ち会うこれらの「形式」が受け入れ難い。