某じゃぱん

魚釣りと人間

人間:褒められると嬉しいについて

「褒めて伸ばす」ってあちこちで見かける。子育てHOWTO的なやつには必ず載っている。新人教育的なHOWTOにもよくある。言いたいことはわからなくもない。が、本当に子育て勝ち確の手段だろうか?本当に新人は戦力に育つのだろうか?

 

ウチの親は自分の家の子供を褒めなかった。少なくとも記憶の範囲で誉められたことはない。褒められるほどのことをしていなかっただけだろうし、褒める対象のハードルは高かったのかもしれない。

 

100点取っても褒められない。

校内写生で最優秀賞取っても褒められない。

習字で県レベル入賞しても褒められない。

 

「褒められる」ってすごくレベルの高いことだと思っていた。

 

中学生の時、「期末で自己ベストだったから一万円貰った」とクラスメイトが言っているのを聞いて疑問が湧き始めた。そして当時の結論。

「褒められるかどうかは、『褒められる』側ではなく『褒める』側次第」だと。

 

褒めるのが上手、褒めるスタイルのように「ネガティブ項目」よりも「ポジティブ項目」に重きを置いて考えるスタンスであれば、自然と褒めるようになる。つまり、問題点より本人が力を入れて頑張りそうなところを探して注力させるわけだ。

 

結果、そこに才能があり開花した人間は幸せかもしれない。しかし、開花しなかった人間は目を背けられ修正のかからなかった問題点を抱えて暮らしていくことになる。当然、そこは短所であり、弱点であり、モノによっては欠点である。これら「褒めた」側のツケを「褒められた」側が支払うのは仕方がないことなのだろうか。

 

上下関係の明確な学生時代は気にならなかったものの、会社員になって感じた「褒められる」ことへの違和感。営業結果について褒めるという行為は、上司からすれば他意はなく、純粋なものなのだろうけど、やけに「上から下」への行為な気がして嫌だった。未だに好きではない。

 

例えば野球をしているとする。レギュラーでショートを守っていて、然程難しくない打球を捕球、ファーストへ送球した際、後輩の補欠から「上手いっすね」って言われたら、「バカにしてんの?」って思う感じ。

例えば習字をしているとする。段位を取得していることを知っている入門して間もない門生に練習書きしたものを「上手いっすね」って言われたら、「バカにしてんの?」って思う感じ。

例えばルート営業をしているとする。通い慣れた営業先との会話を聞いた同行中の新入社員に「上手いっすね」って言われたら、「バカにしてんの?」って思う感じ。

 

「仕事ができるから出世している人間」が全てではないと知った今、この「上から感」が一層不快である。

 

「褒める」「褒められる」って行為のいいところだけじゃなく悪いところも知っている。適切に使えない人間が、ただ机上で手に入れたメソッドで「最強」顔で口にする「褒められると嬉しい」教育法が、いつも気になる。というか好きじゃない。いつだって「絶対なんかない」のが前提。ネガティブな結果検証なんかしてないはずだ。あくまで個人的に、しかし懐疑的だ。