某じゃぱん

魚釣りと人間

人間:戦争がテーマの教科書単元について

「薔薇のボタン」という書き下ろしが中学3年生の教科書(教育出版)に載っている。爆撃により亡くなった女性の衣服が、戦時中にも関わらず「おしゃれ」であったという話。

 

小学生の時、教室の後ろ、ロッカーの上に「はだしのゲン」が置いてあった。小学校の5年か6年の時だと思う。マンガだから気安く読み始めて、熱中ではなくトラウマ。暗い暗い絵、暗い暗い内容…「戦争ってこんなに不幸なんだよ」が全開。

 

中学1年生、教科書に「ベンチ」って物語。ナチス時代のドイツ、ユダヤ人の少年が主人公。ドイツ人の女の子を好きになって。生活の各所に人種差別が。彼女をデートに誘っても、周囲の視線が気になって、人種差別がベンチにもあって。彼女のことを思って結局会うのをやめることに…暗い暗い。「戦争ってこんな悲しいんだよ」が全開。

 

中学2年生、教科書に「夏の葬列」って物語。疎開先のお姉さんが爆撃を受けて…真っ白なワンピースが血に染まって…爆撃を受けたこの母親は気が触れてしまって…暗い暗い。物語も主人公も。「戦争ってこんなに不幸なんだよ」がこちらも全開。

 

戦争教育ってどんなものか、正直よくわからないけれど、「暗い」「不幸」ってアプローチは正しいのか?自分の小学生の頃からずーっとそのアプローチを受けて、辟易してた。ネガティヴなものではなく、「教育サイドからの押し付け」が鬱陶しくて。戦争そのものへの理解よりも「戦争教育」ってものへの不快感と不信感だらけだった。

 

昨年度の教科書改訂で収録された「薔薇のボタン」。戦争の遺品に対して、「美しいものを美しく撮っていけないはずはない」っていうある女性写真家のスタンス。「戦争資料」ではなく、「歴史資料」という考え方。「戦争資料」として撮影するのではなく「被写体」として高次を目指すスタンス。こういう捉え方が教育サイドから戦争について提示されるべき。直接アピールではなく間接で。

 

「美しいものが戦争によって害された。」→「戦争がなければ害されなかった。」→「美しいものが害されるなんて不幸でしかない。」→「戦争を排除しよう。」短絡的だけど、暗くはないし不快感も薄い。

 

最前線で戦う人間は戦争も起こせないし、作家に交渉に行く人間には教科書のコンセプトを決められない、今も昔も。前線に行く必要のなくなった年齢・立場の連中、作家のところに頭を下げに行く立場はとうに超えた年齢・立場の連中、彼らが事件を教科書を作っているって知っておくこと。受動側にいる人間がそれを理解していれば間違えは起こらないのではないだろうか。

 

「薔薇のボタン」の写真家のように、全体として押し付けられた位置ではない視点で万事捉えていきたい。